3月31日(聖木曜日)、弟の誕生と死。
ヨハン・シュトラウス2世誕生。
アントン・ブルックナー
オーバーエステライヒは文化の州です。ヨーロッパにおいて、オーバーエステライヒほど濃密で多様な音楽を聴くことのできる地域は他にありません。それはまた、州の音楽学校のネットワークが充実しているからでもあります。作曲家アントン・ブルックナーは、文化の州オーバーエステライヒを象徴する人物です。2024年に行われた第1回オーバーエステライヒ文化万博(OÖ KulturEXPO)では、ブルックナーの生誕200年が1年間に渡って盛大に祝われました。この記念年以降も、オーバーエステライヒはブルックナーの州であり、この作曲家との多くの接点を提供しています。
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アンスフェルデン
9月4日、教師の父アントンと母テレジア(旧姓ヘルム)の長子として、(ヨーゼフ)アントン・ブルックナー誕生。
その他の出来事
ベルリンの大通り「ウンター・デン・リンデン」にガス灯が灯る。
3月25日(聖土曜日)、弟の誕生と死。
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン、57歳で死去。アントン・レーナー、ローラースケートを発明。
3月22日、妹テレジアの誕生。
フランツ・シューベルト、31歳で死去。
2月17日、妹ロザリアの誕生。
5月5日、妹テレジアの死(百日咳)。
3月13日、妹ヨゼファの誕生。
アンスフェルデンの小学校(三学学校)入学。
6月17日、弟アロイスの誕生。6月27日、弟アロイスの死(てんかん)。
英国の学校でサッカーボールが人気。
7月28日、弟フェルディナントの誕生。11月14日、弟フェルディナントの死(百日咳)。
6月1日、リンツ大聖堂で堅信式。代父はヨハン・バプティスト・ヴァイス。
7月28日、弟イグナーツの誕生。
10月3日、妹テレジアの誕生。10月13日、妹テレジアの死(「アフテルン」)。
アンスフェルデンでの最初のオルガン演奏。
ヘルシングのヨハン・バプティスト・ヴァイス(従兄弟、代父)のもとへ引っ越し、1837年までオルガンとゲネラルバスの授業を受ける。
6月27日、妹マリア・アンナの誕生。
アンスフェルデンに帰る(秋に父が病に倒れる)。
ザンクト・フローリアン
6月7日、父の死。7月はじめまでヴァイスのもとで過ごし、7月末からザンクト・フローリアン修道院の少年聖歌隊に入る。
1840年までアントン・カッティンガーのもとでオルガンのレッスンを受ける。
サミュエル・モールス、電信機を発明。
ルイ・ダゲール、写真を発明。
小学校を首席で卒業。声変わり。
リンツ
リンツの師範学校に入学。
ヨハン・アウグスト・デュルンベルガーのもとで教員助手の研修とレッスン(オルガンと和声)を受ける。
教員助手としてヴィントハーク・バイ・フライシュタットに赴任。
史上初の写真家(「ダゲロタイピスト」)、ウィーンで活動開始。
中流階級の間でも旅行の人気上昇。ベーデッカー『ドイツとオーストリア帝国を旅する人のためのハンドブック』出版。
クローンストルフ・バイ・シュタイアーに転任。男声四重唱団を結成。
エンスのレオポルト・ツェネッティのもとで学ぶ。
リンツで教員資格試験を受験。
ザンクト・フローリアン
教員助手としてザンクト・フローリアンに赴任。カッティンガーにオルガンを師事。
物理学とラテン語を学ぶ。
少年聖歌隊の個人教師に任命。
新聞の重要性と人気上昇。
ザンクト・フローリアン修道院の臨時オルガニストに任命。
代父ヨハン・バプティストヴァイスの自死(協会資金の不正流用という不当な疑惑のため)。
ウィーンのイグナーツ・アスマイアを訪問(《レイクイエム》WAB 39の総譜を贈呈)。
ザンクト・フローリアンの地方裁判所への不採用。
ウィーンのピアリスト会教会でオルガンの試験。修道院長代理アルネートの死。
ザルツブルクの大聖堂協会およびモーツァルテウムの監督職への不採用。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベト(シシー)結婚。
リンツ
中学校採用試験。ウィーンのジーモン・ゼヒターに師事。
リンツ市教区教会のオルガニスト採用試験に合格。
大聖堂および市教区の臨時オルガニスト。リンツの宿舎へ転居(教区広場のMesnerhäusl)。
リンツ大聖堂での試験により正式に大聖堂のオルガニストとなる。
男声合唱団「フロージン」入団。ルドルフ・ヴァインヴルムとの出会い。
皇后エリーザベト鉄道、ウィーン・リンツ間開通。
リンツの両オルガンの状態の悪さへ不満の声を上げる。
『リンツ新聞』でブルックナーのオルガン演奏が言及される。
史上初の乗用エレベーター、ニューヨークで運行開始。
ウィーンのジーモン・ゼヒターのもとで1ヶ月間集中レッスンを受ける。その後定期的に彼を訪ねる。
靴が手縫いではなく底縫いミシンで生産されるようになる。
リンツの居住権を取得。
エーベルスベルクで母テレジアの死。
ピアリスト会教会での「有名な」オルガン試験。ゼヒターのもとでの課程修了。
オットー・キッツラー(リンツの劇場音楽監督)のもとで学び始める。
ウィーン宮廷楽団(王宮礼拝堂楽団)のための最初の計画。
ワーグナー《タンホイザー》リンツ初演。キッツラーのもとでの課程修了。
イグナーツ・ドルンのもとで学び始める。
ロンドン地下鉄運行開始。
ブルックナーの作品では初めて《ゲルマン人の行進》出版(出版者:ヨーゼフ・クレンツル)。
寝台車付きの列車(プルマン式)。
リヒャルト・ワーグナーとの出会い。
ヴィルヘルム・ブッシュ『マックスとモーリッツ』発表。
妹マリア・アンナがブルックナーのもとへ引っ越し、家事を担う。
ヨゼフィーネ・ラングへの求婚。
バート・クロイツェンに滞在(3ヶ月)。ウィーン宮廷楽団への入団申請。
ウィーン大学の作曲教員への不採用。
ブレンナー線(鉄道)開通。
アルフレッド・ノーベル、ダイナマイトの特許取得。
ザルツブルクのモーツァルテウム名誉会員。
ウィーン音楽院から和声、対位法、オルガンの教授として採用。
バート・クロイツェンに滞在(2ヶ月)。「宮廷オルガニスト」に任命。
オーストリアの学校で体操の授業導入。
ウィーン
ウィーンへ転居。ジーモン・ゼヒターの後任としてウィーン音楽院で教鞭(和声、対位法、オルガン)。
ナンシーとパリへのオルガン演奏旅行。
史上初の葉書がオーストリアに送られる。
1月16日、妹マリア・アンナの死。カティ・カッヘルマイアーが家事を引き継ぐ。
聖アンナ師範学校でピアノ教師を兼任。アンスフェルデンの名誉市民に任命。
缶切りの発明(保存用の缶は1810年から存在し、以前は他の道具で開けていた)。
ロンドンへのオルガン演奏旅行。ロイヤル・アルバート・ホールと水晶宮で演奏。
「聖アンナ事件」(一時的に教職を失うが、復帰)。
スエズ運河開通を記念し、ヴェルディ《アイーダ》初演。
ウィーン楽友協会ホールの新しいオルガンの奉献式でオルガン即興演奏。
食堂車付きの列車(プルマン式)。
カールスバート(オルガン演奏)、マリエンバート(療養)への旅行。
バイロイトでワーグナーを訪ね、交響曲第3番の献呈を受理される。
レヴィ・ストロース、ジーンズの特許取得。ウィーン万国博覧会。
7月3日、妹ヨゼファの死。ウィーン大学の和声と対位法の講師への不採用。
ワーグナーの妻コジマが夫に代わって献呈への感謝を伝える。
ウィーン宮廷楽団の副ライブラリアンと少年聖歌隊の副歌唱教師。
ウィーン大学の和声と対位法の不報酬の講師として採用。
イングランドで自転車(フリーホイールとコースターブレーキ付き)の製造開始。
ウィーン大学での就任講義。ウィーン1区へ転居(ハインリヒスホーフ)。
グラハム・ベルとトーマス・ワトソン、史上初の電話通話。
ウィーン1区ヘスガッセへ転居。弟子アントン・エルゼルト・リッター・フォン・ネーヴィンの援助で家賃無料。
ウィーン宮廷楽団へ正式入団。
ヴェルナー・フォン・ジーメンス、電気機関車を発明。
ミュンヘンとスイス(チューリッヒ、ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンなどでのオルガン演奏)への旅行。
ブルックナー住居近くのリング劇場で火事。
ケンブリッジ大学に博士号を申請。バイロイトでのワーグナー《パルジファル》初演を訪問。
リヒャルト・ワーグナーの死。
フランツ・リストを訪ねる(交響曲第2番の献呈のため)。フェクラブルックで60歳の誕生祝い。
グムンデン市電とアールベルクトンネル開通。
伝記のプロジェクトの具体化(アウグスト・ゲレリッチ著)。
シカゴの高層ビル建設。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章を授与。フランツ・ヨーゼフ1世に謁見。
フランツ・リストの死。バイロイトでの葬儀でオルガン演奏。
ニューヨークの自由の女神像建設。
交響曲第8番が、敬愛する指揮者ヘルマン・レヴィから拒否される(大幅な改訂の契機、交響曲第9番の作曲中断)。
コナン・ドイル『シャーロック・ホームズ』第1作発表。
エミール・ベルリナー、蓄音機の特許取得。
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの再埋葬に立ち会う。
ブルク劇場の音楽監督に応募。ウィーン・アカデミック合唱団の名誉会員。
パリのエッフェル塔オープン。任天堂、花札の製造で創業。
「パトロン・コンソーシアム」設立(年額1000フローリン)。皇帝が交響曲第8番の献呈を受理。
バート・イシュルにて、大公妃マリー・ヴァレリーの結婚式でオルガン演奏。
ウィーン音楽院を退職。ウィーン楽友協会名誉会員。ウィーン大学名誉博士。
オットー・リリエンタール、史上初の飛行実験成功。男性用ひも靴。
年初めに健康状態悪化。ウィーン宮廷楽団での任務終了。最後のバイロイト訪問。
イングランドでFCリバプール創設。
寝たきり状態を繰り返す。遺書の作成。
カール・マイ『ヴィネトウの冒険』第1〜3巻発表。ジッパーの発明。
交響曲第7番と《テ・デウム》の演奏のためベルリンへ旅行。記録されている最後の求婚(イダ・ブーズ)。
ザンクト・フローリアンの大ミサでの最後の演奏。シュタイアーで70歳の誕生祝い。
リンツ名誉市民。ウィーン大学での最終講義。
ベルヴェデーレ上宮の管理人室へ転居。
リュミエール兄弟、パリで初の映画上映。
ウィーン
3月29日、最後に公の場に姿を現す。
10月11日、死去。
作品: 交響曲第9番 WAB 109 最終楽章作曲(未完)。
アテネで初の近代オリンピック開催。リリエンフェルト(ニーダーエステライヒ州)に史上初のアルペン・スキー学校設立。